@article{oai:ryujo.repo.nii.ac.jp:00000506, author = {新海, 英行 and Shinkai, Hideyuki}, journal = {研究紀要}, month = {Feb}, note = {第2 次世界戦争後、連合国軍最高司令官総司令部(以後、GHQ という。)の間接統治のもと、そして何よりも新憲法教育基本法制の中で戦後社会教育の骨格形成が方向づけられた。名古屋においては、軍事国家権力による国民教化から解放された市民と教育行政職員によって愛知軍政部(以後、MG という。)の指導、監督下、社会教育の「民主化」が方向づけられた。その特色は以下のとおりである。  第1 に、社会教育の「民主化」理念であり、その根底には教育の自由、自主性(大正デモクラシー以来の)への期待と要望、およびGHQ やMG の情報教育(以下、CI&E という。)担当者の近代的個人主義的、進歩主義的な新教育思想が伏在していた。自由や自主性を原則とする教育は政治や行政からの一定の独立性を主張した。  第2 に、この政策ではもっぱら社会教育団体の再編成に主力が注がれ、国家主導でトップダウン方式の網羅主義的な団体運営から個々の団体の自立性と各メンバーの興味関心にもとづく自主性・インタレスト重視のボトムアップ方式のそれへの転換が図られた。言いかえれば、連合組織から連絡組織への転換であった。  第3 に、社会教育指導者養成が強調され、講習会等の主要な教育内容はグループワークの理論と方法であった。ディスカッション、レクリエーション、エバリエーションなど、個人の参加、討論、評価が尊重され、ナトコ映写機によるCI&E 映画が駆使され、教育の機会均等、教育課程、経験学習的、実務的側面がことのほか重視された。  第4 に、社会教育施設整備の必要性を唱えながら、市の財政上の困難のためであろうか、代表的な施設(東山動植物園、鶴舞中央図書館)を除き、公民館などの地域生活と関連する施設整備は大幅に遅滞し、それへの着手は高度成長期を俟つこととなる。社会教育活動の拠点ともいえる公民館は、唯一西区に1館のみ存在したに過ぎなかった。  第4 に、名古屋においては敗戦直後、解放的な文化的風潮の中で市民の自由で自主的な学習文化活動が次から次へと生まれ、軍国主義下で抑圧された科学的な市民学習が生成した。これは市民と科学者の連携で市民主体の社会生活に根ざした社会教育が育つ契機〈可能性〉をつくりだし、その後の経済復興とともに台頭・再興した政治経済的な環境条件の中でさらなる発展への道筋を追求することとなる。  占領期を中心に名古屋の社会教育は戦後社会教育の基盤を構築したとは言え、GHQ の極東政策(対日民主化政策)の変更と日本の政財界の民主化離れにより、また形式性を重視するアメリカ民主主義理念の脆弱性や旧来の地域支配や商工業中心の伝統的市民性のためかますます保守性と実務性が色濃い社会教育へと変容していった。こうした限界を克服するには、市民の生活課題や地域課題と結びつく現実の生活学習を土台に地域と日本社会を科学的に見通し得るサークル〈小集団〉中心の「共同学習」の萌芽、実現(1960 年前後)を俟たなければならなかった。}, pages = {1--36}, title = {占領期名古屋における社会教育の再生と展開}, volume = {42}, year = {2021}, yomi = {シンカイ, ヒデユキ} }