@article{oai:ryujo.repo.nii.ac.jp:00000525, author = {新海, 英行 and Shinkai, Hideyuki}, journal = {研究紀要}, month = {Feb}, note = {1960 年代には、高度経済成長によって都市化・工業化は促進され、地域の社会構造と市民の生活構造は激変した。経済開発に重点をおく政策を中心に、また改正安保体制(1960 年)下において、占領期に築かれた自由主義的な国家体制から中央集権的なそれへとシフトしていった。教育政策では任命制教育委員会(1931 年)のもとで社会教育法改正(1934 年)にともなう関係団体への公金補助が解禁され、民間社会教育への行政の関与・介入が可能となることによって、社会教育の自由は著しく後退した。これは、教育政策の「逆コース」への切り替えを端的に示唆するものであった。かつて占領軍によって厳格に指導されたノーサポート・ノーコントロールがサポート・アンド・コントロールへと転換を余儀なくされた。  この時代の公的社会教育の政策と事業の特色を見ると、経済成長に有用なマンパワー・ポリシー(高度で中堅の技術者と即戦力としての技能者の養成)が重視され、地域・家庭を守る役割を女性に期待する。社会教育はこの政策的枠組みの中に位置づけられ、成人学校や成人講座では市民教養学習が、婦人学級では生活技術学習が、そして青年学級では実務的、実学的な職業教育が行われた。また、婦人教育(とくに家庭教育)には少なからず性役割的な発想が残存ないし再生したが、市民、女性の地域離れは次第に顕在化し、その結果、地域共同体と結びつく地域婦人会が衰退し、女性の自立を求め、かつ「共同学習」を取り入れたグループがその数を増した。  高度経済成長は税収(歳入)を増額し、市当局の財政規模を大きくしたので、ソフト、ハード両面でさまざまな施策を展開することができるようになった。他都市と比べ名古屋市は遅きに失したとは言え、社会教育事業や関係の施設増改築・新建設も着手可能になったことは学習機会の拡大を求める市民にとっては大きな成果であった。市民は、社会教育への市民参加が不十分であったこと、拠点施設が整備されていないこと、職員の専門性の欠如など、問題点を乗り越え、さまざまな学級・講座や各種イヴェントから自主的な学習グループが生まれ育ちつつあった。こうした動きをとおして市民には地域・職場の自らの実生活に即してリアルな課題を学びあう自主的、自立的な社会教育が欠かせないという教育観が芽生えた。  他方、高度成長はインフレ(物価高)、開発による公害、環境の悪化、青少年問題など、多くの弊害をもたらした。こうした問題に抗して、命と暮らしを守る市民運動も生まれ、市民運動の学習的側面を担う社会教育が育ちつつあった。上述の公的社会教育から生まれたグループ・サークル活動や市民運動とのかかわりで育った学習活動の中で社会教育の自由と権利の発想が芽生えていた。憲法に明記された社会教育を含む教育権理念を市民自身が学習実践の中で自ら認識し、自覚化していく、という意味で戦後社会教育史上有意義であったと考えられる。  60 年代名古屋の社会教育を要言すれば、政策的には国の中央集権体制に左右され、社会教育も後退を余儀なくされたとはいえ、公的社会教育の内外で「実生活に即した文化的教養」(社会教育法第3 条)形成を担う社会教育が「教育への権利」の一環としてとらえられるようになったという点では民主主義・自由主義を基調とする社会教育復権の可能性が萌芽したと総括できよう。}, pages = {1--28}, title = {高度経済成長期名古屋における社会教育の再編と拡大―任命制教育委員会と改正社会教育法のもとで―}, volume = {43}, year = {2022}, yomi = {シンカイ, ヒデユキ} }